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大抵の客は無言のままに食事を終えると、金銭のやり取りを行うことなく足早に店を去って行く。すると、主が食事を終えたことに気付かなかった影があわてて路地に飛び出し、夕陽に照らされて長く伸びた体を引きずって、動きづらそうに走り去って行った。そんな影の足音に重なるように、噂好きの街灯達が忍び笑いをする音なき音が路地中に響き渡っていた。
「また街灯達が忍び笑いをしていますよ。何か面白いことでもあったかな」
蕎麦屋の二階には一本橋伯爵という人物が住んでいた。角度を変えると紫や緑に変化する真っ黒なタキシードを着た品のいい初老の男性だが、極端な細面のせいか貫禄には少々欠ける。その上、少しフレームの歪んだロイド眼鏡が彼の細面をいっそう貧弱に見せていた。
伯爵は口元にたくわえた髭をいじりながら、いつものようにハーブで煎れた茶をすすっては、部屋をぐるりと見回して悦に浸る。この伯爵の部屋である二階部分は、一階の店とはまるで趣きが異なり、天井や壁という壁、棚やテーブルの隅から隅まで色とりどりのランプが飾られており、そのランプの放つ幻想的な光が部屋中を包み込んでいた。
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