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陸上競技場に来たのは、初めてだった。
二階の会場席から、グラウンドを見ると、石段の上に矢野君が座っていた。
そろそろ競技が始まるのだろうか。矢野君をはじめとする短距離走の選手たちの眼に、緊張の色が浮かんでいる。
張りつめた空間の中で、矢野君は長い紐を縛り直し、ピンのついたスパイクの裏側の点検をしていた。
私は声がかけられなくて、二階席から彼の姿をじっと見ていた。
秋風が吹いた瞬間、彼の髪が流されて、一瞬、花の香りがした。
ふと、こわばっていた彼の表情が、ほぐれたように見えた。
一拍の間の後、彼はゆっくりと顔を上げる。
誰かを探しているのだろうか。きょろきょろと目を動かし、二階席を見ている。
『よかったら、見に来てくれないかな……』
私はバス停で聞いた彼の言葉を思い出した。
もしかしたら、矢野君は、私を探しているのかもしれない。
高鳴る鼓動を隠しながら、二階席からグラウンドに向かって手を伸ばし、矢野君に気づいてもらえるように、何度か大きく振ってみた。
数秒後、私を見つけた矢野君が手を振り返してくれた。私は照れるように笑った。
矢野君は、同じユニフォームを着た選手たちに何やらこつかれている。真っ赤な顔をした矢野君は、格好いいより、可愛いと思った。矢野君が言ったことは、本当だったのだ。
男の子を可愛いと思ったのは、この日が初めてだった。
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