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月草の借れる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ
(月草之 借有命 在人乎 何知而鹿 後毛将相<云>)
作者不詳 万葉集 巻十一-二七五六
幸せな、夢を見た。
まだ大人になりきれず中性的な面影を残した俊一がふっくらとした赤ん坊を腕に抱いて歩き、そばには彼の上着の裾を固く握って離さない幼い憲二と、お転婆に飛び跳ねてくるくると回る清乃。
三人は異国の歌をとりどりに口ずさんでは笑っている。
「あれは、マザーグースよ」
母、絹の、聞いたことのない嬉しそうな声。
風が、木々を揺らして木漏れ日もちらちらと揺れる。
白い光に包まれた中、夏の薔薇が咲き乱れる花壇の向こうからゆっくりこちらへやってくる女性が見えた。
くちなしの花弁のようななめらかで白い肌、黒目がちで涼やかな瞳、薄く色づいた小さな口元。
目が合った瞬間、ほほ笑んだ彼女の唇に命が灯る。
「あなた」
「・・・っ」
指先が、空を掴んで目を開いた。
サンルームでとりどりの書類を読みこんでいるうちに、いつの間に深く眠ってしまったようだ。
今はまだ夜明けから少し経ったばかりで、朝露の匂いが清々しい。
ふと身体に目をやると着せかけてあったのは、覚えのあるキルト毛布。
ゆっくりとした足音に顔を上げると、コーヒーと朝食を載せた盆を運ぶ家政婦の姿が見えた。
「・・・これは、勝巳か?」
軽く毛布を持ち上げると、住み込みで働いて久しい家政婦はほろりと表情を崩した。
「はい。それはもう、旦那様を心配なさって」
もう七十に近いであろう彼女にとって、幼児の頃から面倒を見てきた勝巳が可愛くて仕方ないようだ。
「その露草も、勝巳さんが夜明け前に摘んで、生けてらしたようです」
大きめのテーブルの中心には、色鮮やかな青い花をつけた露草が数本、ガラスの花器に生けられていた。
当の勝巳は、庭を少し世話したあと朝食も取らずに東京へ戻ったという。おそらく、医師としての仕事が待っているのだろう。
駅へ向かうタクシーに乗り込む寸前、ふと思い出したように勝巳は見送りの家政婦たちに生けた花のことを言付けたらしい。
「きっと、旦那様が露草を目にされることは、なかなかないだろうからと」
「なるほど・・・な」
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