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数年前に政界から身を引き、清乃の夫で婿養子の勇仁に全てを委ねた。
しかし、古参の支援者とのやりとりなど、根回しにあたる一部の業務はいまだに自分と専属の秘書たちの仕事だ。
心身ともに万全と言えない娘の清乃が政治家の妻としての務めを果たせない以上、出来るだけのことをやろうと思っているが、ここのところ年のせいか疲れやすくなった。
気が付いたら自分ももう、八十も目前だ。
いささか長く生き過ぎた。
しかし自ら壊した世界をなんとか修復したくて、今もこうしてあがいている。
「あれは、花をよく知ってるものだな」
「・・・ええ。庭の隅々までご存知です」
何もかも心得ている家政婦は多くを語らず僅かな笑みを返すのみで、手早くテーブルの上を整えて静かに辞した。
『夏になったとはいえ、この辺りは風通しが良すぎるから、どうかお気を付けください』
勝巳。
お前の、深く、柔らかな声が聞こえてくるようだ。
私が殺そうとした、四番目の子供。
なのに今、誰よりも近くにいるのは、なぜだろう。
濃い青に染まった二枚の花びらと細く垂れさがる繊細な雄蕊が、窓からの風を感じてかふるりと揺れた。
夜明け前に目覚め、昼の光の強さにしおれる花。
こんなにも濃く標すのに、長くとどまれない青の色。
数日で散る桜を、人は儚いと言っては命を語る時によく用いるが、もっと儚く、美しい花は他にいくらでもあるのだと、この庭のかたわらで過ごすようになって知った。
いや。
それを教えてくれたのは、ひとりの人。
押しつけがましいことは一切なく。
寄り添うように。
そこに根差す草木のように。
ただ、ただ、静かに存在する。
「勝巳」
なぜ、と問うのは愚かなことだ。
自ら知ろうとしなかった日々の重みが、今、ずしりと身体に覆いかぶさる。
私はお前に、何ができるだろう。
僅かに露を残した露草の、瑠璃のような青。
音もなく通り抜ける、草の香り。
眺めているうちに、ざわめいていた心が青の世界へと沈んでいく。
夢をまた見ている、と、どこか冷静な意識が自らに語りかける。
夢の中では、誰もが自由で。
潜ったことなどないのに、深い海の底を目指してゆっくりと自分は降りて行った。
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