帰らぬ声に秋の音を

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 妻が去ったことで部屋の中は一気に静かになった。開いた襖の向こうで、娘が寝返りを打つのが見え、音を立てないように近付き、寝返りを打ったことで乱れた膝掛け用のタオルケットをそっと娘の体に掛ける。  ふっくらとした頬。少しつり目がちなのは妻に似たのだろう。  娘が無邪気に寝ている姿を見て、自然と自分の口許が弛むのが分かった。 「ばあちゃんに感謝だな」  静かな部屋に無意識に呟いた言葉だけが小さく響く。  自分には勿体無いくらいの妻、そして目に入れても痛くないほど愛しい娘。  もし、妻の言葉を素直に受け止めて良いのなら、今こうして二人と毎日を送ることが出来ているのは、祖母のお陰かもしれない。  そう思ったら、先程の言葉が自然と口から漏れたのだった。  どうしても、若かった頃の祖母への酷い態度を思い出すと、何年経とうが、良い気持ちは全くしない。  それでも、苦い思い出だったとしても、今の幸せに繋がっているのなら、その思い出に対する後悔も、少しだけ形を変えていくべきなのだろう。  あの後悔を感じなければ、いつかの会社の後輩のように、気に入らない人に対し横暴な態度をとっていた自分が、今もいたかもしれない。  苦い思い出は決して美化してはいけない。だけれども、いつまでも縛られてばかりではいけないのだ。 「ばあちゃん、ごめん。ありがとう」  ずっと言いたかった言葉が、口から溢れた瞬間だった。  誰かが聞いているわけではない。娘も相変わらず口許をむにゃむにゃと動かしつつも夢の中だ。  ふと、隣に祖母が座っているような、そんな懐かしさを感じた。  たった一瞬だけだったので、自分の気のせいだったかもしれないが、それでも嬉しさに似た何かが胸の奥から微かにわいてきた。  ーーチリリン、チリリン……。  庭の方から囁くような音色を奏でる鈴虫の鳴き声が聞こえる。  ばあちゃんが大好きな鈴虫の音だ。  幼い頃、この部屋で祖母と過ごした日々が再び甦る。  祖母は、俺の頭を撫でながら「綺麗な音色だねぇ」と良く言っていた。  当時はその音色の良さなど分からず、俺にはただの虫の鳴き声にしか聞こえなかったが、今は、不思議と祖母の言葉に共感出来た。  控えめに、かといって静か過ぎずに、愛しい誰かに思いを告るように鳴り響く鈴虫の声に、俺は自然と目を瞑り、聞き入った。 【完】
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