スケッチブック 〜里菜〜

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 私が自分でもそこそこ納得のいく絵を描き終えたのは、授業が全部終わったあとの夕方のことだった。  美術部と称して美術室に籠もり、私はひとりでその絵を無我夢中で描いていた。受験勉強で忙しくなった三年生が美術室に来なくなった後、美術部は私ひとりになることが多くなっていた。いつもの私は飽きっぽくて、ひとりで美術室にいると、気づけば落書きばかりしている。でも今日はひとりでも、ずっとペンを走らせていた。ようやく描き終わった頃には、きれいな夕焼け空が窓の外に映っていた。昨日の天気とは正反対だね。  今日は七夕だ。この調子なら、今年は織姫と彦星もちゃんと出逢えそうな気がする。それは一年に一度であったとしても、ちゃんとこうして大切な人に出逢えるんだから、少し羨ましいかもしれない。  私は目を瞑って、思わずくすんと笑った。  それでも――私が目を瞑っても、彼が私の視界に入ってくることはもう二度とない。  神社へ行くと、たまに彼の声が聞こえる――ような気がする。  でもそれは多分、私の空耳に違いないから。  ところでこの絵、誰に見せようか?  ……と考えるまでもなく、私の足は音楽室へと向かっていた。  私はただ、あの泣いていた女の子と話をしてみたいと思ったから。  泣いている理由なんてものはどうでもよかった。  ただ、その人を捕まえて、話を聞いてみたいって、そう思ったんだ。  春日さんはあっさりと見つかった。吹奏楽部だから、音楽室にいるだろうと探してみたところ、そのすぐ隣の音楽準備室でノートPCを開き、ごそごそと入力作業をしていた。てっきり練習でもしているのかと思ったけど、その作業はどう見ても吹奏楽部の雑務にしか見えなかった。名簿でも作っているのかな? 「あの〜…………?」  練習ではないとはいえ、むしろこの様子は話しかけにくいものがあった。 「あ、河合さん? こんなところでどうしたの?」  予想に反して、春日さんは私の声にすぐに反応した。なんだか気分転換の話し相手を探しているようだった。 「昨日のことだけど……」 「…………昨日?」  春日さんは不思議そうな顔で私を見る。  ――あれ? なんだか私が想定していた反応とはまたしてもちょっと違う気がする。 「あの〜、昨日私と神社ですれ違わなかった?」  私の声は少しだけ大きくなっていた。  当然だけど、『昨日神社で泣いてなかった?』とは聞けない。でも、私は昨日の女の子は春日さんだと思っていたから、だからそうやって聞いてみた。  ……ひょっとして、違ったのだろうか? 「え、昨日? 神社?? 昨日はわたし吹奏楽部で練習してたら夜になっちゃって、神社には行かずにそのまま帰ったけど。」 「あ……そう、なんだ……?」  さっきから想定外の反応ばかりだ。私のペースはくるくると乱されていく。  掛川くんとあんなに親しそうに話をするのは、春日さんしかいないと思っていたのだけど――。私の予想を覆し、あの女の子は春日さんではなかったらしい。  言われてみて、ふと思い出したことがあった。春日さんって、そういえばずっと前からショートボブだったよね。昨日私とすれ違った女の子は、もっと髪の長い女の子だ。  ともすると、あの女の子は一体誰だったんだろう? 私は思わずさっき描き終わったばかりの絵を取り出して、もう一度眺めてみた。すると春日さんもその絵を、横から眺め始めた。 「うわ〜。これ、あの神社じゃない。わたしよく行くんだよ〜。すっごくよく描けてるね。」 「うん。昨晩、神社で見た光景。……なんとなく頭から離れなくて、今日はこればかり描いてた。」  春日さんはとても無邪気な笑顔を見せた。どちらかというとちょっと暗くて大人しい感じの女の子というイメージがあったけど、春日さんってこんな顔も見せるのか。 「これ、男の子と女の子? なんか、女の子のほうがちょっと元気なさそうな感じもするけど。」  A4のスケッチブックに、わずか5cm程度で描かれた男女を見て、春日さんはそう言った。 「女の子は泣いてたんだ。なんで泣いてたのか理由はわからないけど、なぜか綺麗な泣き顔だった。」 「この二人、喧嘩でもしたのかな〜?」 「そう……かもしれないね。」  そう春日さんに言われて、ふと思うところがあった。  そもそもなんでこんな泣き顔が、輝いているだの綺麗だのと感じてしまうのだろう?  ますます私はこの絵を描いてる理由を、自分でもますます理解できなくなっていく。 「これ、うちの学校の生徒?」 「たぶん。男の子は恐らく掛川くん。女の子は誰だかわからないけど。私は春日さんだと思ってたから。」 「……掛川くん?」 「うん。」  それは間違いないと思う。だったら最初から掛川くんに聞けばこの女の子の正体もわかりそうなもんだけど。  でも私は、掛川くんに話しかける勇気が持てなかった。それは、『昨日女の子を泣かせてなかった?』なんて尋ねる自分が想像できなかったからだ。それは当然……だよね? 「ねぇ河合さん。掛川くん……って誰だっけ?」 「…………え?」  が、春日さんはまたしても完全に想定していない反応をしてくる。それを契機に一瞬の沈黙の間が私を襲ってきた。 「だって春日さん、いつも掛川くんのこと『翔』って呼んでるよね?」 「……え、そうだっけ?」  私の声は一層大きくなっていた。  春日さん、すっとぼけるのもいい加減にして!……と、思わず笑ってしまいそうになったけど、それはなんだかいつもの春日さんとは全然雰囲気が違う。嘘をついているとか、私を騙そうとしてるとか、とてもそんな表情には見えない。それはいつもの春日さんではあるけれど、でもいつもの穏やかな春日さんではないというのは、なんとなくわかってしまった。  春日さんの目が泳ぎ始め、どこか慌てているように見えたから。  すると春日さんは時計の針に目をやった。 「あ、ごめん河合さん。私吹奏楽部のOB名簿をまとめなくちゃいけなくて、もう少し時間かかりそうなんだ。だから、神社の絵のこと、明日またちゃんと聞かせてね。」 「……あ、うん。」  春日さんは何かを隠すような笑顔でそう言うと、また黙々とPCをぽちぽちと打ち始めた。  遠くの方からトランペットの甲高い音が聞こえるけれど、それを打ち消すかのように、春日さんのキーボードを叩く音が音楽準備室に鳴り響く。 「春日さん。今日は七夕だね。」  私はふと、そんな風に声をかけていた。 「そうだね。今日はいい天気だから、きっと星も綺麗だよ。これ終わったら神社の展望台行ってみよっと。」  春日さんはそう言うと、にこっとした笑顔を返してきた。  これ以上邪魔しちゃ悪いよね。今日は退散しよっと。  明日掛川くんに聞けば何かわかるかな? わかったところでなにかあるわけではないけれど。  それにしても…………。    一体貴女は誰なの? 今はどこにいるの?  今日は七夕だよ。だから貴女がどこにいようと、幸せそうに笑っていることを願っています。  星に願いを込めて。
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