スケッチブック 〜里菜〜

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スケッチブック 〜里菜〜

 翌日の学校。私は授業中も、ノートに昨晩の光景をスケッチブックに描いていた。  というのも、カメラで撮っていたはずのその写真がどこにもなかったからだ。  昨晩の夜遅く、デジカメで撮った写真を確認していくと、見事にその光景だけが抜け落ちたかのように写真が見当たらなくなっていた。なぜ? 確かにカメラに収めたはずなのに、シャッターの音だってちゃんと聞いていたはずなのに、私は思わず自分の目を疑った。あのシャッター音は空耳だったというの?  だからその時撮ったはずの写真を、私は絵で描こうとしている。  だけど、女の子の顔がどうしても思い出せないでいた。女の子の涙を描こうとすると、思わずペンがすっと止まる。描くのが辛いとかではなくて、頭の中からその顔が一向に出てこないのだ。  それとは対象的に、彼の顔はスラスラ描くことができた。だって彼は私のクラスメートだし、そんなの描けて当然だ。  彼の名前は掛川翔。少し口は悪くてぶっきらぼうではあるけど、その常に真っ直ぐな瞳は、時折私の心をどきっとさせる。彼は本当はいい人なんだって、私はそう思っていた。  昨日の掛川くんの表情もはっきりと覚えている。あの女の子とどんな話をしていたかは当然わからない。それでも私は、目に焼き付けたままの掛川くんの表情を、丁寧に描いていた。  掛川くんと一緒にいたということは、女の子は春日さんだろうか?  春日明日美。そのあどけない顔は私もちょっと憧れてしまうほど可愛らしいのだけど、私が話しかけても明日美は自然とスルーしまうことが多くて、やや近寄りがたい。ただ、それは明らかに素でやってるというのがすぐわかるから、悪気がないことも勿論知っていた。もう少しいろいろ話ができたら楽しいだろうに、なんだかちょっともったいない感じの女の子だ。  私や掛川くんとは同じクラスで、掛川くんとは同じ吹奏楽部でもある。そのせいだろうか、春日さんは掛川くんといつも一緒にいて、いつも喧嘩ばかりしている。そもそも掛川くんって、今年4月高校入学と同時にこの街にやってきたはずなのに、春日さんは4月頃から『掛川くん』ではなく『翔』って呼んでいた気がする。  なんでかよくわからないけど、その違和感だけが私の頭に強く引っかかっていた。  春日さんと掛川くん、一体どんな関係なんだろう? 私はふとそんなことを考えてしまうこともあった。  午後になると、いつもなら眠くなるはずなのに、今日はそんな眠気に襲われることもなかった。私はまだ満足のいく絵が描けないでいる。 「ちょっと里菜? いくらあんたが成績優秀で授業がつまらないからって、堂々とノートに絵を描いてるってどうなのよ?」 「だって昨日見た光景が、今にも頭の中から消えてしまいそうなんだもん。」  すると授業の合間の休み時間に、クラスメイトの智子が私のノートを覗き込んできた。智子は私のすぐ後ろの席だし、そんなのバレバレに決まってるか。それにしても私が成績優秀とか、一言余計だ。私より試験の点数が上の人だって、いるにはいるはずなのに。……まぁこのクラスの中では私が一番なのかもしれないけど。 「え、なにこれ? 風景画? めっちゃうまいのはわかるけど、おバカなあたしの頭ではこの絵が何を描こうとしているのか、全然わからないよ〜!」 「これのどこが風景画なのよ。ここにちゃんと2人いるじゃない!」  私は小さく描かれた男女二人を指差す。 「え、これ人物だったの? たしかに小さいながらも異様な空気を放つ『点』だな〜とは思ってたけど。」 「仕方ないでしょ。遠くてこの2人の表情がうまく出てこないんだから。」  それにしても『点』という感想はさすがに酷い感想だ。ただ、そう突っ込まれても返しようがないほどその二人は小さく描いてしまっていた。私としては点なんて描いてつもりはないんだけど、この二人を描こうにも、特に女の子の顔の方が思い出せないから、それにつられて掛川くんの顔もはっきり描くことができないでいた。  これはまた描き直しかな。私は描いても描いてもその絵に納得がいかず、今朝から描いてる枚数はまもなく三桁に達しようとしている。いったいどれだけ描けばいいのだろう? 「……って、今日だけでこんなに描いてたの!? 里菜。こんなに絵ばかり描いてたら、いつになっても彼氏なんてできないよ? あんた学校一の才女とか言われてんだから、もうちょっとその自覚も持ちなさいよ!」 「余計なお世話よ。それに今は男なんて興味ないもん。」 「何言ってんのよ。里菜みたいな女の子だったら、男のひとりやふたり連れ回していたって全然おかしくないじゃん! それがひとりも彼氏がいないとか、そんなのもったいないに決まってるでしょ!!」 「ねぇ智子? その言い方ってちょっと失礼じゃないかな〜。主に私に対して。」  私がぼそっと本音をこぼすと、智子は笑い飛ばそうとしていた。それ見て私も思わず笑みが溢れる。  そしてまた、もうしばらく私の絵をふたりでじっと眺めていた。 「ところでこの二人って、男の子と女の子?」  そのどう見たって『点』じゃなかったのかというのを見つめながら、智子はそう聞いてきた。 「うん、そうだよ。男の子の方は掛川くん。でも、女の子の方は誰だかわかってないんだ。」 「え、誰を描いているのかすらもわかってないの?」 「だからさっきから遠くてよくわからなかったって言ってるじゃん。」 「……ねぇ里菜? なんで今朝からそんなわからないだらけのものを必死に描いているのよ?」 「さぁ〜? なんでだっけ???」  そんなとぼけた回答を智子に返すと、智子は呆れた顔を返すものの、ただしあまりにもいつものこと過ぎて、半分諦め気味な様子を浮かべていた。それにしても私は、たしかになぜこうして朝から何枚も描いているのか、自分でもはっきりした回答を持っていなかった。  でもそれは、まるで輝いているかのような綺麗な光景だったから、私はこうして描いてるんだ。……もちろんそれだけで私がここまで熱中するかと問われると、どこか釈然としないものが残る。その理由さえもよくわからなかった。  ただひとつはっきりしていることは、私がこうやってこの絵を描き残そうとすると、その差し伸ばした手の先に、抜け落ちた何かが見えてくるような気がしているということ。それが何かはわからない。ただ、誰かにこれを描いてと耳元で囁かれてるような、そんな感覚があったんだ。  私は絵を描くのが大好きだ。それは、私の絵を見て喜んでくれる人がいたから。  その人の気持ちに応えたいって。だからこうして、何枚も何枚も絵を描き続けているのかもしれない。    私はまたスケッチブックの紙をめくって、新しいページに絵の続きを描き始めた。
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