金の海 響く歌声

3/16
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/16ページ
 冷たい水しぶきを顔に浴びて我に返ったとき。  満ちてきた潮にまわりを取り囲まれていた。  泳げないわたしは、どこにも行くことができなくなった。  岩の上に登ったところで、わすかな時間稼ぎにしかならないことはわかっていた。  岩はあまりにも低すぎたし、しがみつくにもなめらかすぎたから。  寄せては返す波。  おだやかに見えても、どれほどの力が秘められているかを。  わたしはよく知っている。  小さな波一つでも侮ってはいけない。  そう教えられてきたし、それを守ってもきた。  わたしにとって海はすべてだった。  海以外の場所へ行くことなど、考えたこともなかった。  海で生まれ、海に行き、海で死んでいくことを疑ったこともなかった。  あの人に会うまでは。  ──漁師。  あの人は、そう呼ばれる人間だった。  人魚たちがもっとも嫌う人間。けっして近づいてはいけない人間のひとり。  なのに、なぜだろう。  あの人だけは、怖いとは思わなかった。  あの人は、ほかの漁師と違っていた。  ひとりきり、小さな船に乗り、網を投げて魚をとる。  投げるのは一度か、二度だけ。  それだけで、必要なものが得られるようだった。  まるで魚のほうから網の中に身を投げているかのように。  あの人はいつも静かだった。  網をふわりと投げるときも、船の上に引き上げるときも。  そして静かに櫂をこいで去っていく。  わたしは遠くからあの人を見ていた。  何度も何度も。飽きることなく。  夜に漁をしているときには、歌うのをやめて、あの人の船の底に潜った。  船をひっくり返してあの人を食べようとする鮫を追い払うために。  鮫が嫌う声で歌うのだ。  その声は、分厚い海の水に阻まれて、あの人の耳には届かない。  人魚がいるなんて、夢にも思わないはず。  それでいい。  それでいいはずなのに、残念に思えてしかたなかった。  わたしは、あの人に恋をしていた。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!