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冷たい水しぶきを顔に浴びて我に返ったとき。
満ちてきた潮にまわりを取り囲まれていた。
泳げないわたしは、どこにも行くことができなくなった。
岩の上に登ったところで、わすかな時間稼ぎにしかならないことはわかっていた。
岩はあまりにも低すぎたし、しがみつくにもなめらかすぎたから。
寄せては返す波。
おだやかに見えても、どれほどの力が秘められているかを。
わたしはよく知っている。
小さな波一つでも侮ってはいけない。
そう教えられてきたし、それを守ってもきた。
わたしにとって海はすべてだった。
海以外の場所へ行くことなど、考えたこともなかった。
海で生まれ、海に行き、海で死んでいくことを疑ったこともなかった。
あの人に会うまでは。
──漁師。
あの人は、そう呼ばれる人間だった。
人魚たちがもっとも嫌う人間。けっして近づいてはいけない人間のひとり。
なのに、なぜだろう。
あの人だけは、怖いとは思わなかった。
あの人は、ほかの漁師と違っていた。
ひとりきり、小さな船に乗り、網を投げて魚をとる。
投げるのは一度か、二度だけ。
それだけで、必要なものが得られるようだった。
まるで魚のほうから網の中に身を投げているかのように。
あの人はいつも静かだった。
網をふわりと投げるときも、船の上に引き上げるときも。
そして静かに櫂をこいで去っていく。
わたしは遠くからあの人を見ていた。
何度も何度も。飽きることなく。
夜に漁をしているときには、歌うのをやめて、あの人の船の底に潜った。
船をひっくり返してあの人を食べようとする鮫を追い払うために。
鮫が嫌う声で歌うのだ。
その声は、分厚い海の水に阻まれて、あの人の耳には届かない。
人魚がいるなんて、夢にも思わないはず。
それでいい。
それでいいはずなのに、残念に思えてしかたなかった。
わたしは、あの人に恋をしていた。
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