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愛犬であるネズミ色のルナが、消化不良による吐き戻しをしてしまった。夜間診療を受け付けている動物病院へルナを預け、砂織はクラブ『涼』へと急ぐ。出勤直前の出来事で慌てたが、オーナーママは「家族の一大事だから」とペナルティなしで遅刻を許してくれた。始まりは、そんな夜だった。
地味な私服からブルーのレンタルドレスへと早替えをしている最中、件のオーナーママである涼子が珍しくせわしない様子で控え室へとやってきた。
「サオリちゃん、ちょっといい?」
「はい」
やはりペナルティがつくのかと身構える砂織に、涼子は予想外な提案をする。
「手話、できるわよね?」
「あ、はい。日常会話程度ですけど……」
面接時に持ち込んだ履歴書の特技欄に、『手話』と書いた覚えが確かにある。水商売の面接には全くメリットのないアピールだったと、この夜までは笑い話のネタのように思っていた。
「斉藤様が同伴されたご新規様がね、『ろうあ』の方みたいなのよ」
「全く聞こえないんですか?」
「そうなのよ。だから、会話もままならなくって。最初は皆、面白がって筆談を楽しんでたんだけど、若い子たちは『手が疲れちゃいますぅ~』なんて言っちゃって」
手紙をほとんど書くことのない世代にとって、文字を書き起こすことは思った以上に骨の折れる作業に違いない。スマホやタブレットのように、漢字が一発変換で出てこないことも疲れる要因なのだろう。
かといって、ホステスと客が黙々と電子機器を操作し合うというのも無粋な話だ。
「そういうわけで、そのお客様の席に着いてちょうだい」
サッパリとした性格同様に簡潔な指示を出すや、着物の裾を慌ただしくさばきながら、涼子は足早に去っていった。
初めての客との対面は、いつだって緊張する。年代は、体格は、お酒の好みは……。喋る速度は、どのくらいだろう。何年も経験しているはずが、その瞬間だけは新人の頃に戻ったかのように、鼓動が早まる。
呼吸を整えフロアへ向かうと、すでに話を通されてスタンバイしていた黒服が、砂織をエスコートするために待ち構えていた。
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