一、

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 それはもうどれくらいかも分からない程の遥かな昔。今のように枝も葉もなく、彼女がまだ小さな種の形をしていた頃のこと。彼女をそっと土の寝床へ運んでくれた、やさしい指があった。彼女の健やかな成長を願ってくれた、涼やかな声があった。  ニーニャは、自分を誕生させてくれたその人を待っている。  その人の姿形はぼんやりしていて、『ニーニャ』というのがその人の名前だったか、それともその人が口にしたものだったか。果たして本当にそんな言葉だったのか。目覚めの時を待ち、固い殻の内側で微睡んでいたあやふやな意識の中での出来事では、それすらはっきりしない。  ただ、それだけが唯一彼女が憶えていた言葉だった。  ニーニャ、ニーニャ――と、祈るように囁きはじめたのは、嬉しかったから。  その人がいなければ、目覚めることなくとうに朽ちていたかもしれない。けれど、大地に抱かれ根を張り芽を出して、年を追うごとに若葉は溢れ、しなやかに枝が伸びる。嵐の日も寒さに凍える夜でも、嬉しくて嬉しくて――。寄せては返す波のように、繰り返し呼びかけ続けた。  声は、やがて周囲の人々の心へ届いていった。声を聞くことができたのは、ごく少数の限られた人達ではあったけれど。その中に本当に声を届けたかった人はいなかったけれど。声を聞いた者も、それを伝え聞いた者も、共にこの地で暮らした人々は皆彼女を愛し慈しんだ。『ニーニャ』と、彼女自身をその名で呼んで。     
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