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 夢から覚めた。  薄暗闇の中で体を起こす。軋む心臓が鈍痛を全身に運び、残された時間が少ないことを思い知る。  さよならだけが人生だ。  唐代の漢詩をそう訳したのは確か井伏鱒二だったか。  一期一会、そう言ってしまえば聞こえはいいが人生は惜別の連続だ。誰も彼もいなくなる。知らぬ間に、さよならも、その理由さえもなく。  立ち上がると床で寝ていたせいか背面に鈍痛を覚えた。油絵具特有の臭気がジメジメと湿った空気に運ばれて鼻腔に届いた。  目の前には描きかけの絵が一枚、イーゼルに鎮座している。  僕の最後の作品になる絵だ。  どうやら昨晩は作業の最中に寝落ちしてしまったらしい。足元は絵筆とひっくり返ったパレットで色とりどりの汚れが散らばっている。窓に目をやるともう日は高いのか遮光カーテンの隙間から差した光が埃を白く煌めかせている。 作業を再開する前に先ずは掃除だと思い立ち洗面所へ行った。  このアトリエは街外れの一軒家で、生活できるだけの設備は備わっている。というか作業に没頭するためにほとんどの時間をここで過ごしている。税理士の口車に乗って買った都内のマンションには月に一度も帰らない。それにたとえ残骸だとしてもかつての友情が僕をここに留まらせていた。  恵まれていることは自覚している。僕の描いた絵に値段がつく。こんな時代に芸術で生計を立てることが許されているのだから。  まあそれが金満投資家たちの資産運用の玩具にされているが為だとしても構わない。  売れ線や他人の嗜好を忖度しながらの創作であったとしても、自己表現の結果生じた産物、いわば己の分身が評価を受けることは僕自身が存在を赦されたようでその事実に救われた。  なのに  なのに、僕は今も一人で絵を描いている。  昔と同じように。  初めて絵筆を握ったあの日と同じように今、人生最後の作品に取り掛かっている。  ずっと一人だったわけじゃない。  母がいた。戦友がいた。もしかしたら此処には愛もあったのかも知れない。  だけど  だけど誰も彼もいなくなった。  さよならも、その理由もなく。
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