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掃除を終えて作業を再開した。
キャンバスと向かい合い、絵筆で掬った絵具を下書きの上に盛り付けてゆく。
目に見える世界を感情で染め上げて色彩を表現する。他人と同じように世界を見ていたらそれは作品にはならない。自分はこうだ、という個性が必要だ。でもあまりに突飛では駄目だ。それでは誰も理解できない。個性と普遍性、その曖昧な境界線を分かつ塩梅こそが作家の首に下げられた値札の数字となる。
「まあでも、なぁ」
この作品は正真正銘、僕の分身だ。誰かに見せる為じゃない。ましてや金や賞を取るための表現じゃない。僕のための作品なのだから。
だから普遍性はいらない。
僕の全てを刻み付ける。
本来、芸術とはそういうものなのかもしれない。
独り善がりで視野狭窄、でも妥協も忖度もない。そんな純粋な境地に初めて立てた気がする。
思えば僕が絵を描き始めた理由は極めて不純なものだった。
幼稚園に通う前、チラシの裏にクレヨンで描いた花の絵。それを両親に褒めてもらったのが嬉しかったから。だから絵を描いた。
幼稚園のお絵かきの時間でも僕は一番上手くて、だから褒めてくれて。そんな小さな矜持がどこまでも大切で。だから褒められるために描いた。
青い空を往く鳥、陽光を浴びて咲き誇る大輪の花、澄んだ海原と天下泰平を謳う積乱雲。
そんな誰でも好むようなもの、綺麗で毒なんてどこにもなくて、でも薬にも成れそうにない絵を描き続けた。
そうすればみんなが褒めてくれるから。
僕を見てくれるから。
でもやっぱり。
他人というのは勝手にいなくなる。
中学に上がって少しした頃、母が家から出ていった。父と何かあったらしいが、詳しいことは分からない。
ある晩、両親が言い争っている声に目を覚ますと、彼女が金切り声を上げて家を飛び出していった。
彼女は僕に何も告げずに消えた。
さよならも、その理由さえなく。
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