第二章 雪泥鴻爪

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 野島家の離れに――夫と暮らすあの部屋に帰れば、意志を持たないお飾りの妻に戻る。あの夜のように感情に任せて抱かれても、今日のように理不尽に振りまわされても、自分の気持ちに鈍感でいる。正しいのはいつもあの人だから。 「怖いです、たぶん。家に帰るのが」  潤は飾らずに正直な言葉を発した。ほんの一部でも、ようやく自分の中から放り出すことができた想いは雪にしがみつき、ゆらゆらと降りていく。  もう足の感覚がない。両手を合わせてみると氷のように冷たい。  ふいに、それが大きな右手に包まれた。驚く間もなく「冷えきっている」と言われた。彼の分厚い手も冷たく乾いている。 「泣くほど怖いですか、帰るのが」 「……泣いてはいませんけど」 「目が赤い」 「でも泣いていません」 「強情ですね。僕の思ったとおりだ」  苦い顔で意味深げなことを言った藤田は、ふと優しい表情を浮かべてこう続けた。 「書道をしに来ませんか」  しんしんと降る白雪を見下ろす竹林が、ふたりを隠し、ふたり以外を隠している。このまますべて覆われてしまえばいいと願いながら、潤は白い息とともに返事をした。
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