第二章 雪泥鴻爪

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 黒く塗りつぶされた背景を彫り込んだかのように白い文字列が浮かび上がっている。さきほど藤田が拓本と言ったとおり、石碑に紙をあて、そこに刻された文字を墨を使って写し取ったものだろう。  美しく均整のとれた楷書が並ぶ。簡素で無駄がなく、表情が乏しいようにも見えるが、その固く厳しい印象が毅然とした佇まいを感じさせる。 「綺麗な字ですね。まさにお手本、という感じがします」  潤は思ったことを正直に伝えた。しかし、胸の内はどこか物足りなさを覚えている。もっと、なにかを深く求めているような気がしてならない。 「これは欧陽詢(おうようじゅん)という中国の書家による九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんのめい)という書です。およそ千四百年前に書かれました」  藤田の説明に潤はため息を漏らす。 「そんなに昔の人が、こんなに端正な字を書いていたのですね」 「ええ、楷書の極則といわれています。理想的な楷書ということです」 「たしかに理想的な形ですね。誰が見ても美しい字。でも……」
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