第二章 雪泥鴻爪

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 落とした目線の先では黒いズボンの脚の上で大きな手がこぶしを作っていた。浮き上がった筋がそこに込められている力の強さを物語る。しかし、それがどのような感情を示しているのかはわからない。  ふと、藤田が小さく咳払いをした。あの日もこの部屋で聴いたその音はやはり色っぽく漂い、鼓膜にまとわりつく。 「潤さん。僕は……」  固い低音が脳に響く。その声は唐突に、心の奥に埋もれている小さな欲の先端を掴んで引きずり出そうとする。潤は言い知れぬ恐怖を覚えた。 「あの……次はこれ、これを見てみます」  藤田の言葉を待たずに、潤はほかの法帖に手を伸ばした。  なにを言われるかは見当もつかないし、それはさほど重要でもなかった。そうさせたのは話の内容ではなく、藤田の声だ。妙な色を纏ったその低い声をそれ以上聴きつづけることができなかった。
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