第二章 雪泥鴻爪

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 『多寳塔碑』と題されたそれが丁寧にひらかれていく。紙をめくる繊細な音さえ、その無骨な指によるものだと思うと湿り気を帯びて甘美に響く。 「これも顔真卿の楷書です」  心地よい低音とともに現れた書跡に、潤は思わず息を殺し背筋を伸ばして向き合った。  それは充分に心を揺さぶるものであった。堅固な美しさの中にどっしりと構える気骨が滲み出ている。しかしながら、先に見た痛快な二作と比べて整然としており、個性が際立っていないように見受けられる。 「……そんなに向勢じゃない」  ひとりごとのように呟くと、それに合わせてか「そうだね」と親しげな声が返された。 「これは真卿四十四歳のときの書で、七十二歳で書かれた顔氏家廟碑ほどの生々しい迫力は感じられません。線質はやはり力強いけれど顔法の特徴はさほど目立たない。この頃はまだ顔法が完成の域に達していないわけです」
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