第一章 顔筋柳骨

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「潤ちゃん。お造り上がったから藤の間に運ぶわよ」  先輩仲居の菊池から指示を受け、潤は緊張しながら返事をして背筋を伸ばした。  会社を辞めた誠二郎とともにこの地に越してきたのは、社長の病を知らされたあの夏の日から三ヶ月後の十一月下旬に差しかかる頃だった。  男は一度心に決めたら揺るがないと聞いたことはあったが、頼りないと思っていた夫が初めて見せた強い決意の表情を目の当たりにし、潤はそれを実感した。そして、自分に残された選択肢がふたつしかないことを思い知った。  拭いきれない不安を抱えながら夫と一緒に故郷に帰るか、別れるか。それは選択の余地などほとんどないことを示してもいた。  旅館の敷地内にある野島家の離れを借りる形で慌ただしく生活が始まり、誠二郎はさっそく若旦那として、潤は若女将、ではなくとりあえず仲居として仕事を覚えることになった。  それからもう三週間、髪を結い、帯を締めて働く毎日を過ごしている。
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