第二章 雪泥鴻爪

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 哀しいのではない。情緒が少し不安定なだけ、と心に言い聞かせる。 ――泣くな。恥ずかしい。  自分の心の声と、子供のころに聞いた母の声が重なる。何事にも完璧さを求める、あの威圧的な声が。  咽びそうになるのを必死に抑え込んだとき、藤田の背が深呼吸するように上下した。息を吐く音がしたあと、彼は言った。 「貸しますよ。背中」  穏やかな声。選択を急かさない、ただそこに置いておくだけの声だった。  潤は涙を流しながら頬を緩めた。 「では少しだけ、貸してください」  膝を崩して横座りになり、藤田に背を向けると、そっと身体を後ろに倒した。  服越しに感じる硬い筋肉と熱。呼吸を繰り返すその背中に身を委ねれば、心が静まってくる。 「先生……まるで背勢ですね」 「ああ、本当ですね」  苦笑まじりの低い声が背中を通して響き、「では」と続けられた。 「向勢にしますか」 「え?」 「僕が貸せるのは背中だけではありません。胸も、腕もあります」
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