第二章 雪泥鴻爪

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 濡れた頬を指で拭いながら、心に言い聞かせる。触れてほしいと思ったのは自分自身だと。その気持ちが藤田に伝わってしまったからなのだと。 「先生は、私の馬鹿な願いを受け止めてくださっただけです」  藤田が力のない笑い声を漏らした。 「僕が偽善的な動機であんなことをしたと本気で思っているのですか」 「いえ、あの……」  潤は言い淀んで黙り込む。  重い沈黙の中、「これは推測ですが」という前置きをした彼が言った。 「あなたが僕と一緒にいることをご主人はまだ知らない。女将さんはこのままなかったことにするつもりでしょう」 「……なかった、こと」 「そういう女性です」  静かに、だがはっきりと発されたその言葉は潤に違和感を覚えさせた。どこか棘のある声色が形づくった“女性”という響きが妙に胸を騒がせる。  それ以上藤田の口からなにかが語られることはなく、車はひたすら白く色づいた道を走りつづけた。
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