第二章 雪泥鴻爪

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「申し訳、ありませ……っ、申し訳ありません……」  頭を下げながら、なにに対する謝罪なのか自分でもわからなくなっていた。すでに起こってしまった過ちへの反省、あるいは、これから起こるかもしれない崩壊への懺悔。漠然とした不安にかき立てられるまま、潤は何度もそれを繰り返した。  やがて、「早く来なさい」という呆れ声が今夜の秘事を闇に葬った。振り返らずに歩き去る女将の足跡を追って、潤は冷えきった足を踏み出した。  薄い雪を踏みしめながら数歩進み、やはり耐えられずに後ろを振り向けば、遠くで佇んだまま動かない男の姿が視界に入った。  かすかに彼が笑みを浮かべたように見えた。だがそれは、そうであってほしいと切望する愚か者が脳内で創りあげた儚い幻だったのかもしれない。  潤は彼から顔を背け、溢れ出る涙を指で拭いながら未練を振り払うようにその場をあとにした。  明日には、雪解けとともにこの足跡も消えるだろう。跡形もなく。 『雪泥鴻爪(せつでいこうそう)』 雪泥の上の(おおとり)の爪跡。雪解けのぬかるみに鴻が爪の跡を残してもすぐに消えるという意味から、世間の出来事や人の行いなどが消え跡形のないこと。
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