第三章 一日千秋

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 こたつに脚を忍ばせ、座布団の上に正座して背筋を伸ばす。バッグの中から筆巻、下敷き、半紙入りのファイル、折りたたまれた新聞紙を取り出し、道具一式を配置すると、水滴で硯に水を垂らし、墨を当てて磨りはじめた。しがらみを忘れ、無心になれる時間だ。  三週間前――松の内が明けた八日に、美代子が遅いクリスマスプレゼントとして贈ってくれた書道セット。一見書道バッグには見えないものをわざわざ選んでくれたのだ。昼休み中にこっそり訪ねてきた彼女は、「若旦那様には内緒よ」とさわやかに微笑んだのだった。  以来、毎日時間を見つけてはひとり黙々と書道に勤しんでいる。  水と墨が混ざり合って液体の濃度が増し、高貴で清々しい香りがふっと立ち上がる。潤はいったん墨を置いて水滴を手に取り、陸に水を数滴落とすとふたたび墨を磨りつづけた。  それを何度も繰り返して墨の海を作ると、固形墨を置いて深く息を吐き、冊子を手にした。  夫に見つからないよう日時を指定してネット注文した顔真卿『多寳塔碑』の法帖。顔法入門に適していると藤田が言っていたものだ。
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