序章 嚆矢濫觴

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 自己陶酔とは、このような感情を示す言葉なのかもしれない。そう思わせる字だった。  静寂がこだまする展示室。野島潤(のじまじゅん)は、壁に掛けられた物言わぬ書の前に立ち尽くし、隣に立っている夫の存在も忘れ、三十年の人生で初めて覚えた感覚に戸惑っていた。  自身の華奢な身体より大きな白い紙に黒々とした墨が形づくる、『潤』――。  その墨痕淋漓たる作品は、墨をたっぷり含んだ巨大な筆が紙をこする音、その筆を操る書家の息遣い、そして、どこからともなくぽたぽたと落ちる水滴の音まで聴こえてきそうな錯覚を与えてくる。  自分の名前を表す漢字が、こんなにも気分を高揚させ、身体の芯を潤す力を持っている。これまでただの一度も感じたことのなかった“自分という文字”への抑えようもない高揚感は、自己に対する性的快感と似ている気がした。
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