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「これは水を入れるものです。硯に水を垂らして、墨を当てて磨っていくんです」
「……私、知りませんでした。習っていた教室では市販の墨液を使っていたので。すみません」
「いやいや、気にしないで。すぐに墨液を持ってきますね」
穏やかに言った藤田が立ち上がろうとしたところで、潤はようやく彼の意図を理解した。
「あっ、待ってください」
「え?」
「墨……磨ってみたいです。自分で」
勇気を出して言ってみると、藤田が上げかけていた腰を下ろしてすまなそうに笑った。やはり彼は市販の墨液を使うのではなく、墨を磨るところからレッスンを始めようとしてくれていたのだ。
「やり方を教えてくださいますか、先生」
「もちろんです。少し時間はかかりますが」
「構いません」
「そう。よかった」
藤田は目尻に深く皺を刻み、「水は僕が入れてきますね」と言いながら水滴を手にして足早に部屋を出ていった。見た目はあきらかに夫より年上だが、その無邪気な態度は少年のようである。
それまで抱えていた不安や緊張が薄れたことに安堵して、桐箱から半紙を出そうと下を向いたとき、長いストレートの黒髪が顔にかかり視界を覆った。
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