第三章 一日千秋

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 反射的に目をつむり左に顔をそらすと、無防備な右頬に、ひた、となにかが触れ、潤は肩をすくめた。  筆だ。肌をすうっとなぞる毛の感触、鼻をかすめた幽香でそれがわかる。薄目を開けてみれば、視界の端に映るのは自身の右頬から伸びる筆管、その先には試すようなまなざしがあった。  誠二郎は無言で手を動かす。頬から顎へ下りた濡れ毛は首筋を通り、鎖骨の内側のくぼみを嬲り、べったりと撫で下ろす。  人のぬくもりを感じない、だが充分に水分を保った毛束に愛撫される妙な感覚が肌を震わす。色のない視線で互いの心情を探り合いながら、白い柔肌は夫の操る毛筆に弄ばれ、墨をこすりつけられ、黒く染まっていく。  胸のあいだを滑り下りた筆は、へその穴を塗りつぶすようにぐるりと一周し、また黒い線をなぞって胸に戻る。するとふたたび同じ道を通って腹部に下がり、今度は腰の曲線を確かめるように脇腹を撫で上げる。
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