第三章 一日千秋

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 この地に越してきてから、すでに手中にあるはずだった平穏な日常を見失い、手に入る保証もない不安定ななにかを手に入れようともがいていた。どこまでも広がる海ではなく、小さな池の底で。不毛なのだ、なにもかも、最初から。 「なにか言えよ、潤」  その声に応えず、諦めに似た気持ちで目をそらした瞬間、誠二郎が激昂した。 「お前の、そういうところが……っ、腹が立つって言ってるんだよ!」  今まで聞いた夫の声の中で、それはもっとも荒々しい怒気と明確な悪意を含んでいた。お前――そう呼ばれるのは初めてだった。 「そうやって俺の前ではおとなしい女のふりして、外では……っ、だらしなく股ひらいてるんだろ」  非難の言葉を次々に降らせながら、恥丘に茂みの上から筆をぐいと押し込んでくる。彼はもう穏やかな夫という役目を完全に放棄している。
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