第三章 一日千秋

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「潤さん!」  静かな空気を切り裂いた、女性の鋭利な叫び声。  開いたままの障子の間から見えたのは、着物の裾を乱して居間に上がってくる女将の姿だった。  憤怒の相でそこに立った彼女は肩で息をしながら惨状を把握すると、着ている羽織をすばやく脱ぎ、潤のそばに身を屈める誠二郎を押しのけ、墨で汚れた裸体にそれを掛けた。 「女将……わ、私……」  それだけ発するのがやっとの潤を哀しげな視線で制した女将は、押されて尻餅をついたまま呆然としている息子に怒りのまなざしを向けた。 「女はお前たちの玩具(がんぐ)ではない!」  声高く叱りつけ、すぐさま唇をきつく結ぶ。その口元は震え、目元には疲労の色が見える。  誠二郎はなにかを言い返そうと口をひらくも、鬼の形相の母に圧倒され気後れしている様子だ。そんな息子を見限るかのように女将は痩せたまぶたをぐったりと下ろした。その拍子に、涙が一滴こぼれ落ちた。
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