第三章 一日千秋

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 母の激昂を目の当たりにし言葉を失くしていた誠二郎だったが、ふと気を取り直したように女将に詰め寄った。 「俺がここにいると誰かに聞いたのか」  その声にぴくりと眉根を寄せた女将は怪訝な視線を息子に返した。しかしすぐに目を伏せ、落胆を思わせる深いため息を吐くと静かに立ち上がる。不穏な話の展開に怯える潤を見下ろし、口をひらいた。 「あなたは一緒に来なさい」 「え……」 「そのまま服を着るつもりなの」  女将は冷たく言い放つと、すっと身体の向きを変えて居間を出ていってしまう。玄関に降りるとふたたび振り向き、まだなにか言いたげな誠二郎を見つめた。 「菊池さんよ。私に知らせたのは」  その声は無感情で、それでいて奥深くを得体の知れないなにかが潜行していくような緊張感を孕んでいた。 「潤さん」  有無を言わさぬ威圧的な声に呼ばれた。股から漏れる体液を拭き取る余裕もないまま、素肌を優しく覆う羽織に腕を通し腰を上げる。  去り際に見た夫の横顔は、硬い表情の中に絶望と憤慨を共存させていた。
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