第三章 一日千秋

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 裏口から母屋に入ると、先を行く女将が風呂場に向かった。潤は寒さに震えながら羽織の前を押さえ、脱衣所に消えたその姿を追った。  音がした浴室を覗くと、立派な檜風呂を満たす掛け流しの温泉が湯気を上げていた。そこに腰を屈める女将の後ろ姿がある。彼女は背後に立つ潤の気配に気づいたのかふと姿勢を正し、振り返った。 「ゆっくりなさい」  目を合わせずにひとこと残し立ち去ろうとする彼女に、潤は「申し訳ありません」と弱々しく口にして頭を下げた。女将の表情を想像すると今すぐに消えてしまいたくなる。  次々と湯が落ちる繊細な音が繰り返される中、感情を抑えた声が降る。 「これでもまだ誠二郎のそばにいられるというの」 「…………」 「答えられないのなら、もうやめなさい。この場所で夫に尽くすことができなければ、あなたの居場所はない」  その厳しい口調が示すのは、単なるいびりの類いではない。女将自身の経験をもとにした痛切な思い。それを感じ取った瞬間、潤は反射的に顔を上げた。
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