第三章 一日千秋

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 藤田千秋――頭から離れないその名。  あの宴会の日、会場で見かけた藤田はいかにも誠実そうな雰囲気を演出し、ごく自然に書道連盟の面々に受け入れられていた。人好きのする顔立ちをした背の高い男だった。その肩幅や上半身の厚みから、がっしりとした体格の持ち主であることは想像に難くない。  胡散臭い、と誠二郎は心の中で毒づいた。  もともと芸術家というものに対して懐疑的である誠二郎は、見る者によって評価の分かれる芸術作品の不安定な魅力を受け入れることができずにいた。潤を連れて藤田の個展を訪れたときも、ただそこにある書をなんとなく見てまわるだけでたいした感銘は受けなかった。  あのとき発した感嘆は、すべて潤を元気づけるためだ。跡目を継ぐことになる自分の隣で不安げに父の話を聞いていた妻の心を少しでも軽くしてやりたいと陽気に振る舞った。  だが、そのような努力は必要なかったのだ。妻はそのときすでに、自分以外の男が精魂を込めて生み出した分身に心を奪われていたのだから。
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