第三章 一日千秋

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 かすかに暗鬱の気配を含む吐息を漏らす音が聞こえた。きつく言いすぎたかと思い顔を上げれば、熱く潤んだまなざしに捕まる。 「……誠二郎くん」  その口から自分の名前を聞くのは久々だった。じっと見つめられ、戸惑い、息を呑む。  こうして無防備に言葉を交わすのはいつぶりか。長年寄りつかなかった故郷に帰り、仕事中や休憩時に美代子と顔を合わせても、無意識に心に壁を作り若旦那としての立場を保ちながら会話していた。今、女の色を濃くした瞳に縛られて、この視線を避けるように生きてきたのだと改めて実感する。  その心情を追いつめるように美代子はにこりと微笑んだ。 「ずっと待っていたんだから。誠二郎くんが帰ってきてくれるのを」  無害を装ったその言葉は繕った関係に爪を立て、胸の奥に沈めた古傷を容赦なく掻きむしる。
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