第三章 一日千秋

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 とっさに身を引こうとしたが、鼻先に押しつけられている襟元からふと懐かしい匂いがした。思わず目を閉じ、香りの深みを追い求めて鼻から空気を吸う。  汗をかけば、もっと濃厚になる――。  十代の頃の甘やかな記憶が一瞬だけ甦り、雲散霧消した。もうあの頃とは違うのだ。低く呻き、誠二郎は美代子の腕を振りほどいた。 「妻がいるんだ……俺にはもう」  自分に言い聞かせるように呟いて立ち上がると、無言で腕を掴まれた。 「着替えないと。出ていってくれますか」  顔を見ずに厳しく言い放ったが、視線は痛いほど感じる。腕を撫で下ろされ、手を握られた。厚みのない柔らかな女の手は、ぬくもりの中に混じるわずかな色情を伝えてくる。  耐えられず強引に引き抜こうとすると、予想に反して美代子は簡単に手を離した。かと思えば、彼女はすっと立ち上がりこちらに背を向け、台所のほうに歩いていった。
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