第三章 一日千秋

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 そこでなにをする気なのかと尋ねる前に「借りるね」という声が飛んできた。水道の蛇口をひねる音の直後、水が流し台を叩く音がした。  妻が毎日掃除し綺麗にしている場所に、かつて狂暴なほどに淫らな憧れを抱いた女が立っている。すっきりと結われた黒髪は、あの頃のような長さを保っているだろうか。わずかに覗く首筋は、いまだに吸いつきたくなるような色香を漂わせているのか。誠二郎は生唾を飲み込んでその光景を眺めた。  しばらく水を流したあと、美代子が蛇口を閉めた。着物の袖を軽く引き上げると、流し台に両手を下ろしてなにかを持ち上げた。ステンレス製の洗い桶。潤が食器を洗うときに使っているものだ。よく見ると湯気が立っている。美代子はそれに湯を貯めていたらしい。  ゆっくりと戻ってきた彼女は、こたつテーブルに目を落とす。 「少し片付けてくれる?」  突然の依頼に誠二郎は一瞬ためらったが、桶を持ったまま立ち尽くす美代子の視線に押されて書道用具や紙をテーブルの端に追いやった。
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