第三章 一日千秋

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「……違う」  わずかな苛立ちとともに呟き、誠二郎はワイシャツを脱ぎ捨てた。インナーを頭から抜いて美代子の前に放ると、その潤んだ瞳を見据えた。 「今でも野島屋に身を捧げるあなたをだ」  美代子の唇はかすかに震え、彼女はそれを隠すためか口を固く閉ざす。細かくまばたきを繰り返し、ハンカチを握りしめる。あきらかにたじろぐ美代子に追い討ちをかけるため、誠二郎は彼女に背を向けて座りなおした。 「野島屋次期主人の身体を維持するのもあなたの仕事なんだろう。たいした役だ」  返事はない。代わりに小さな吐息が聞こえ、次の瞬間にぬるい布の感覚が背中に押しつけられた。右の肩甲骨あたりにそれが這い上がり、遠慮がちに肌をこする。  綺麗なハンカチが汗で汚れる。タオルくらい出してやればよかっただろうか。そんなふうに考えた直後、左の肩甲骨になにかが触れた。  指だ。そう理解するより前に、手のひらが押し当てられた。  背中に貼りついたその小さなぬくもりが一瞬にして十六年前の夏を甦らせる。身体の芯の埋み火が息を吹き返し、心の寒さを吹き飛ばした。
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