第三章 一日千秋

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 それがふたりきりで会うための口実だと、賢い彼女は気づいていたのかもしれない。この部屋に来るときだけ、美代子は唇を紅く塗っていた。食べごろの果実のごとく鮮やかで、薄化粧された顔の中でそこだけが浮いていた。まるで強調されているように。  誠二郎は、色を濃くしたその薄い唇が醜い欲望ごと自身を吸い込んでくれると錯覚していた。そうして迷わずその色情に従った。  きっかけはささいなことだった。並んで机に向かう美代子がなにかをノートに書くためわずかに首を前に倒したときだった。白い首筋にはほんのりと汗が滲み、綺麗なうなじに湿った細い毛が貼りついていた。それを凝視していると、気づいた美代子がこちらに顔を向けた。  困惑と静かな興奮の中で数秒見つめ合ったのち、美代子が視線を誠二郎の口に落としながらうっすらと唇をひらいた。それが暴走への合図となった。ゆっくりと首をひねる扇風機の風がノートをぱらぱらとめくり、貪り合うふたりの汗ばんだ頬を撫でた。
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