第四章 尤雲殢雨

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 狂ったように互いの名を呼びつづける男と女は、ときおり女の肩越しに唇を貪り合っているようだった。潤に見えるのは男の頭部だけだったが、かすかに聞こえてきた荒い鼻息、ぬちゃぬちゃと舌を絡める接吻音がそれを証明していた。 ――菊池さんよ。私に知らせたのは。  女将の言葉とそれを受けた夫の表情が、すでに彼らの関係を暗示していたのかもしれない。圧倒的な貪淫に満ちた光景を目の当たりにしてようやく気づいた。  潤はおぼつかない足取りで屋敷から表通りに出ると、除雪された道をぼんやりと歩いた。ときおりすれ違う車や観光客を避けるように温泉街のはずれを目指した。 ――あああっ! 誠二郎っ! ――美代子……ううっ、美代子……っ!  いくら野島家から離れても追いかけてくる。あのふたりの声、あのふたりの音。逃げても、逃げても。
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