第四章 尤雲殢雨

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 歩みを遅くしようとも心臓は激しく乱打している。息が苦しい。胸に手を当てて呼吸を整えようと努めたが、意図せず喉がひくついた。  暗雲が垂れ込めるようにどんよりとした疑念が全身に漂う。  あれほどよくしてくれていた彼女が、いったいなんの目的で夫との蜜事に走ったのか。夫の名を呼ぶその声は、そうなることが彼女の本懐だと示すように切実な求愛に満ちていた。  夫も、彼女を求めていた。それはまぎれもなく、想い合う男女の交わりだった。  狭い世界に身を置きながら、もっとも近い場所にひそむ秘事すら見つけられなかった。夫の変化を嘆きはしても、姦淫を疑うなど考えたこともなかったのだ。 ――すぐ元に戻るよ。子供ができれば。  そう言い放った男の残酷な目が甦る。  どんなに無慈悲な方法だろうと、身勝手な動機だろうと、夫はたしかに子を望んでいた。にもかかわらず、そのあと別の女を抱いた。
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