序章 嚆矢濫觴

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 八月第四週の土曜日、潤は夫の誠二郎(せいじろう)とともに彼の地元に帰省した。  美しい山あいに抱かれた静かな地。東京から比較的近い避暑地として有名なその場所は、緑に囲まれているからかむせ返るような熱気には包まれておらず、盆休みを避けたこともあり街並みは落ち着いていて、都会の喧騒から逃れひっそりとした時間を過ごすにはうってつけだった。それがただの旅行なら……。  県内でも名の知れた温泉街に、夫の両親が営む野島屋旅館がある。朱塗りの橋の下を流れる小さな川沿いに堂々と佇むそれは、明治五年に創業され、多くの文人墨客が訪れた老舗旅館だ。  風格漂う数寄屋造りの門構えに圧倒されながら玄関をくぐると、格子状に組まれた天井の梁や、大正ロマンを思わせる照明器具といった趣あるロビーに迎えられる。歴史ある日本建築を繋ぐ渡り廊下の周りには、手入れの行き届いた日本庭園が広がる。  美しい池に面した棟内の廊下を最奥まで進み、特別棟二階にある客室に通された。二日間の滞在のために夫の両親が用意してくれたという。
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