第一章 顔筋柳骨

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 自虐めいた言葉に笑みを返しながら、反射的に潤はその口元に注目した。  髭に囲われた唇。適度に厚みがあり引き締まっていて、健康的な色をしている。  魅力的なそれが、もの言いたげに薄くひらいた。その奥で綺麗に揃う白い歯がわずかに見えたとき、大きな身体が近づいた。  にじり寄るなにかから逃れるため、潤はとっさに俯いた。 「あの……潤さん」  その低い声が耳のすぐ上で響いた瞬間、背筋を甘美な疼きが駆け上がり、秘密の濡れ襞がひそかに収縮した。  藤田の書を目にしたときに想像した息遣いが今、直接鼓膜を震わせている。耳が熱い。きっと真っ赤に染まっている。  さきほど手を握ってきたとき、左手薬指に指輪があることに彼は気づかなかったのだろうか。そう不安を覚えた直後、それは杞憂に過ぎなかったと次に落とされた言葉が証明した。 「あなた、野島屋の……」  その名を耳にして我に返り、弾かれたように顔を上げると、こちらをまっすぐに見つめる黒い瞳が迷いを抱えているかのように揺れた。それを目の当たりにした瞬間なぜか、知られたくない、と思った。
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