第二章 雪泥鴻爪

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「こんにちは!」  男の子の元気な声が耳に届いた。生徒を迎えにいくため、昭俊は静かに腰を上げた。  玄関に顔を出すと、そこには菊池智(きくちとも)がいた。涼しげな目元が母親にそっくりな小学一年生だ。 「智君、こんにちは。今日もおばあちゃんに送ってもらったの」 「うん。お母さん仕事だから」 「そうか。さ、おいで」 「おじゃまします!」 「はい、どうぞ」  靴を脱いで家に上がった智の小さな手を取り、部屋に戻る。  障子が開けられた瞬間、そこに大好きなお姉さんを見つけた智は昭俊の手を振りほどき、黙って彼女の隣に正座した。  綾華は表情を変えず、ひたすらに墨を磨りつづけている。智は彼女の横顔を気にしながら、自身も静かに書道バッグから道具を取り出して並べ、背筋を伸ばした。  ほほえましい光景におのずと口角が上がる。昭俊は智が座る机の前に膝を落とし、穏やかなまなざしを向けた。 「智君。今日はどんな字を書こうか」  彼はその問いには答えずに、隣で精神を研ぎ澄ませている憧れの人を一瞬ちらりと窺うと、穢れのない綺麗な瞳で昭俊を見つめた。
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