第二章 雪泥鴻爪

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 ひそかに唇を噛みしめたとき、更衣室の扉をノックする音がした。扉の向こうで「すみません」と誠二郎の声がする。 「そこに潤はいますか」  その固い声に、潤は美代子と顔を見合わせた。ほかの仲居たちも黙り込む。  野島屋で働きはじめてから、こうしてわざわざ夫が呼びにくることは初めてだった。午前中の業務でなにかまずいことでもしてしまったのだろうかと不安を覚えつつ、心配そうな美代子に笑顔で頷いてみせ、部屋を出た。  黒いスーツの上に野島屋の藍色の法被を羽織った姿の誠二郎が俯き加減で佇んでいる。その表情は硬い。 「……どうしたの」  扉を閉めておそるおそる小声で尋ねてみると、遠慮がちに目を合わせてきた誠二郎も声をひそめる。
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