序章 嚆矢濫觴

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 一方で、習字の授業が好きだった。  学校以外で習字教室に通っていたこともあり、筆で字を書くことには慣れていたし、なにより、“色を塗る”という考えからかけ離れた“文字を書く”という表現方法が自分には合っているように思えた。  姿勢を正して静かに紙と向き合い、文字の配置を考えながら正しい位置に筆を入れる。やり直しのきかない一発勝負。書き順、とめ、はね、はらい、すべてが決められたルールの中でその緊張美を形にできたとき、精神が研ぎ澄まされているように感じた。  硬筆より毛筆、特に大筆で大きな紙にのびのびと字を書くのが得意だった。六年生のときに学校で行われた書き初め大会で、半紙三枚判を用いて書いた四字熟語『初志貫徹』は先生や友達に大好評であった。だがもっとも重要なのは、潤を滅多に褒めない母がその堂々とした書を見て満足そうに笑ってくれたことだった。  初めに心に決めた志を最後まで貫きとおす――。  残念なのは、十八年経った今、子供の頃に憧れたその言葉とは無縁の思考に呑み込まれそうになっていることだ。新鮮な刺身を口に運んで夫と笑顔を交わしながらそんなふうに思い、潤は心の中でため息をついた。
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