第二章 雪泥鴻爪

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 無精髭に作務衣、ではない。たった数日前の面影がすっかり消え失せたその姿を藤田だと認識するのに数秒かかった。 「せん、せ……」  あまりの驚きに潤は放心するしかない。  一方の藤田はなにも言わずに微苦笑を浮かべ、頭の後ろをぽりぽりと掻く。寝起きのように乱れていた髪はしっかりと整えられ、“先生”と呼ぶにふさわしい。 「遅いじゃないかあ、藤田君」  赤らんだ狸顔をしかめる男性に絡まれて彼は困ったように笑い、その長身を屈めた。 「すみません。でもちょっと顔を出しにきただけですから。役員の皆さんに挨拶してきますね」  そう言い残し、眼鏡の女性やほかの会員たちとも笑顔で挨拶を交わしながら上座のほうに進んでいく。 「おお、書道会の若手スターが来ましたよ!」  どこからともなく聞こえたそのひと声で、会場にいる客全員の視線が藤田に注がれた。どよめきと拍手がわき起こると、彼はさらに腰を低くしてそれに応える。スターにしては謙虚である。
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