序章 嚆矢濫觴

9/10

2035人が本棚に入れています
本棚に追加
/391ページ
 東京に戻る前、夫婦は藤田千秋の個展に立ち寄った。  会場に足を踏み入れた瞬間、潤は目前に待ち構える骨力のある書の数々に釘づけになった。並ぶ作品をひとつひとつ丁寧に見て回り、そのたびに深いため息を漏らした。  字形、線質、白黒のバランス、静と動、潤渇の美。もちろん詳しいことはわからないが、それらの要素は書家の心情そのものを表現しているような気がした。小学生の頃の自分が得意だった習字とはかけ離れた、ただ美しいだけではない芸術作品。このようなものを書道と呼ぶのかもしれない、と思った。 「潤、あれ見てごらん。『潤』だって」  誠二郎が、清潔感のあるひかえめな笑みを浮かべて言った。  導かれるまま視線を向けた潤は、明るさを抑えた照明の中、スポットライトを浴びるその書に一目で心を奪われた。
/391ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2035人が本棚に入れています
本棚に追加