第二章 雪泥鴻爪

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「ほら、行こう」  左手を引かれて小さく一歩踏み出したとき、背後から何者かに右腕を掴まれた。  振り向くより先に強い力で引っ張られ、左手が夫の手からするりと抜ける。そのまま通路につまみ出された。  煤竹色の着物の肩を大きくゆっくりと上下させ、女将が深い息を吐き出した。身体の前で手を重ね、頭上から糸ですっと引き上げられたような立ち姿。恐ろしく、美しい。 「潤さん」  いつものように厳しい声を発した女将を、すぐに追ってきた誠二郎が低い声で制する。 「女将、突然なにをするんです」  非議を孕んだその声に、彼女はまったく動じない。 「……誠二郎」  だが息子の名を口にするとき、一瞬だけ伏せられたその切れ長の目には底深い哀しみが映っているように見えた。 「ここはお客様に愉しんでいただく場。あなたが私利私欲のために利用してよい場所ではありません。あなたはあの人から、野島屋主人としての資質を受け継がなかったようね」
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