第二章 雪泥鴻爪

39/113
前へ
/391ページ
次へ
 女将はふと目を伏せると、すっと後ろを向いて会場内に歩いていってしまった。やがて、女将の登場を歓迎する客たちの声が聞こえてきた。  瞬間、頭がぐらりと揺れ、視界が白くぼやけた。  潤は近くにある壁にもたれかかり、手のひらで顔を覆った。肩で息をしながら、込み上げる吐き気に耐える。  そばを通る仲居の誰もが殺伐とした空気を察しながらも、決して歩み寄ってはこない。あたりには右往左往する足音が行き交うだけで、それはみなが潤の異変に気づいたうえで仕事を優先させていることを示していた。  歪む意識の中、潤は思った。若旦那の妻でありながらほかの従業員たちと同じ立場として働く自分は、仲居たちにとってはかえって扱いづらい存在だったに違いない。考えてみれば仲居たちの中で分け隔てなく接してくれたのは美代子だけだった、と。  しばらくそのままの状態で息を整えてから、潤は壁を伝ってゆっくりとその場を離れた。  重い足取りで本棟に戻り更衣室に辿り着くと、畳の上に膝から崩れ落ち、声を殺して泣いた。着物の水縹色が、ぽたぽたと落ちるしずくで濃い涙の色に染まっていった。
/391ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2036人が本棚に入れています
本棚に追加