第二章 雪泥鴻爪

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 着替えを済ませ、肌襦袢やタオル、足袋などの小物をトートバッグに詰め込んで、野島屋を出るころには午後八時を回っていた。宴会の終了時間は九時。本来ならばその片付けで十一時近くまで拘束されるはずだ。いつもより早い帰宅に少なからず罪悪感を覚える。  でも、と潤は思い直した。今の自分では帰らないほうが迷惑をかけてしまうだろう。 ――もう来なくてよい。  そう言った女将の顔は真剣そのものだった。異議を寄せつけない、吹雪に似た冷たい迫力があった。  裏口から一歩外に出れば、刺すような冷気で満たされた薄闇の中を粉雪が舞っていた。地面をうっすらと覆う白い絨毯を黒のフラットパンプスで踏みしめて進めば、さく、さく、と積もりたての結晶が壊れる音がする。 「寒い……」  雪明かりを頼りに敷地内を横切り、野島家の離れに向かって歩いていたが、ふとそこへ帰ろうとしていることに虚しさを感じて立ち止まった。  もし本当にもう野島屋で働くことを許されないのなら、自分はいったいなんのためにここに立っているのか。どこに帰ればよいのか。 ――君は俺の隣で黙って笑っていればいいから。  甦った夫の言葉は、自分自身が無意味で無価値なものだと確信するのに充分な残酷さがあった。
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