第一章 顔筋柳骨

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 ぼんやりと灯を見上げる。なにもしない時間があると、決まって頭に浮かんでくるのは父の言葉。 ――あれを頼む。あれは、野島屋の次期主人であるお前にしか守れんのだ。  八月の帰省から一週間後。父に決断の連絡を入れたときに電話の向こうから聞こえたその厳めしい声は、紛れもなく自分の父のものであったが、同時に知らない男のようでもあった。  なるべく音を立てないように布団から出た誠二郎は、静かに鏡台のそばに歩み寄った。  そこに置かれた書に目を落とす。暗い橙色の灯に淡く照らされ、輪郭がぼやけて見える力強い文字にそっと触れた。  紙に染み込んだ墨が乾いて固まり、潤の頑固なほどの愚直さを映し出しているようだ。紙ごとそれを握りつぶしたい衝動に駆られ、自身のこぶしを握りしめた。  立派な潤筆だ、と思った。  もっと褒めてやればよかった、とも思った。 『顔筋柳骨(がんきんりゅうこつ)』 中国の唐時代における楷書の四大書家のふたり、顔真卿と柳公権の筆法の重要な部分。「筋」は筋肉、「骨」は骨格の意味で、書道のこつや骨組みのこと。または力強いことのたとえ。
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