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第一章 あなたが好きです
「いかがでした? 社長のおうち」
窓の外に広がる中庭の景色からテーブルの向こうへ目をやると、仕事の補佐をしている吉永深雪がにっこりほほ笑んだ。どんな言葉を期待しているのかわからないが、大きな目がキラキラ輝いている。
会社が入っているビルの一階にある喫茶室は正午になると大賑わいだ。落ち着いた内装もあいまってふだんは静かなフロアは、このときばかりは賑やかになる。その一角、フロアの一番奥のテーブル席が遼子と深雪の定位置だ。ランチのあとに提供されるコーヒーを待っていたところに深雪から唐突に問われ、騒々しさが一瞬消えた。
今朝、深雪と顔を合わせたときはなにも聞かれなかった。仕事中だってそうだった。だから聞かれることはないだろうと思っていたのに不意を突かれてしまい動揺したものの遼子はすぐに気持ちを立て直す。
「住みやすそうな部屋だったわよ。独身の男性が住むには広すぎるけどね」
当たりさわりのない言葉で返事をしたら、すぐさま次の質問がきた。
「ふうん。それでそのあとどうしたんです?」
「え?」
予想外の問いだった。が、これこそが深雪が一番聞きたいことなのだろう。向けられている目が輝きを増している。
「ど、どうしたって……、言われても。お寿司をいただいたあと、自宅まで送ってもらってそれで……」
「結局なにもなかったってことですね。もったいない」
しどろもどろになりながら答えた自分の目線の先で、深雪がわざとらしいため息をつく。
深雪がなにを期待していたのかはわからないが、心苦しくなる前に別所と別れられたから自分的には良かった。もう少し一緒にいたい気持ちはあったけれど、二人きりでいる時間が増えるとつらくなってくる。だからこれでいいのだ。少し離れたところから思うだけでいい。どうせ一ヶ月後にはもともと法務部の要であった弁護士が復職するし、そうなったら代替えとして働いている自分は用済みだ。別所と食事をした幸せなひとときを思い返しながら窓の外に目をやると、中庭の中央にある桜の木が見えた。
春になると薄桃色の花を咲かせる桜の木は、秋から冬に移ろうとしている今、生い茂った葉を一つ残らず落とす。そうやって養分を蓄え、来る春に備えるのだという。花壇で咲きほころんでいた花々も枯れたあとは、地中で春が来るのを静かに待っている。
多くの花々や木々は。春が来るたび花を咲かせられる。仕事をして家に帰って食事をして寝るだけの毎日を過ごす自分とは大違いだ。三十を過ぎて一人に戻った我が身を振り返っていたら、食後のコーヒーが香ばしい香りとともに運ばれてきた。早速いただこうとカップに手を伸ばしたら、自分と同じく窓の外を眺めていた深雪がいきなりこちらに顔を向けた。
「遼子先生。社長のこと、好きなんですよね? 社長は遼子先生のこと、めちゃめちゃ好きだと思います。あの女たらしもそう言ってますし」
深雪が言った「女たらし」とは別所の秘書で物件探しが好きな岡田のことだ。
深雪は、常日頃から素行がよろしくない岡田を「女たらし」だの「クズ」と言って憚らない。しかも彼の話になると必ず顔をしかめさせる。それだけ毛嫌いしているはずの岡田と深雪が仕事以外の話をしているのが驚きだったが、そのうえ予想外の言葉が耳に入ったものだから遼子は言葉を失う。
「まだ、わかりませんか? 社長が自宅に遼子さんを招いた理由。どうにかして距離を縮めたい、それにあわよくばって思ってたのミエミエでしたよ」
「ええっ!?」
「だから助け船出したのに……。社長ったら……」
不満をあらわにした深雪を前に、遼子はぼう然となった。
よくよく考えてみればおかしな話だ。企業内弁護士(インハウスローヤー)である自分にプライベートな相談をするなんて。でもそういうことも珍しくないこともあり、遼子はいたってビジネスライクに受け取っていた。だが深雪の様子から察するに、そうではないらしい。しかも岡田もそう思っているとなると厄介だ。これから別所にどう接すればいいかわからない。難しい顔をしながら今後のことを考えていると向かいから視線を感じた。深雪から真剣なまなざしを向けられている。
「遼子先生」
「はっ、はい!」
「社長、勝負に出ますよ。だってあと一か月で遼子先生、ここからいなくなるし」
「し、勝負?」
聞き返すと深雪は大きく頷いた。
「自宅に招いたのはその始まりにしか過ぎません。だから、そろそろ覚悟決めたほうがいいと思います」
「か、覚悟って、なんの?」
おどおどしながら問いかけたら、深雪がずいと迫ってきた。
「もちろん社長とくっつく覚悟です」
「く、くっつくって……」
顔をこわばらせながら遼子が言うと、深雪はにんまりと笑った。
「遼子先生は絶対に認めてくれませんが、社長のことが好きなのミエミエですよ。法務部のみんな知ってますし、二人がくっついてくれることを心から願っています」
「ええっ!?」
顔だけでなく全身がカッと熱くなった。
「大丈夫ですよ、社長は優しいし、どんなことがあっても遼子先生を守ってくれる人だと思います。だから、遼子さんはなにも考えず社長の腕の中に飛び込めばいいんです」
それができたらどんなにいいか。内心でそんなことを思っていたら午後一時を知らせるチャイムが鳴り響いた。
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