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序 章 恋のときめき 愛の悲しみ
もしかしたら、あの人の心に入りこめるかもしれない。
クロゼットを開いてすぐ、遼子は思った。
もしも彼に意中の相手がいるのなら、洒落たアイテムのひとつやふたつあるはずだ。しかし目線の先にあるものは、シンプルなものばかりで色気というものがない。見せてもらった部屋にも恋人の存在を感じさせるアイテムはなかったし、おそらく彼は現在フリーで間違いない。整然と並ぶボタンダウンの白シャツにナチュラルカラーのチノパンを一瞥したあと、ほっとしながら収納扉を閉めようとしたら、あることに気がついた。
自分はなにを期待しているのだろう。恋愛は面倒なものでしかないと思っているのに、恋心を抱いてしまった相手の自宅に女性の存在を示すものがないことに安堵するなんて。自己嫌悪に近い感情が心に広がりかけたそのとき、ドアを開く音がした。
「遼子先生?」
別所の低い声が耳に入り気持ちを切り替える。振り返ると部屋の入り口に彼が立っていた。
会社で目にする彼はダークカラーのスーツ姿ということもあり、きっちりとした印象だ。しかし目線の先にいる彼は、クロゼットにあったカジュアルなアイテムを着ているからか、ふだんより若々しく見える。もしもグレイヘアでなかったら四十代前半、いやもしかしたら三十代後半でも通用するだろう。サイドを短く刈り込んで、頭頂部の短めの髪をほんの少し逆立てたはやりの髪型にしてはいるが、銀狼のような髪が年相応の落ち着きを醸し出していた。
彼は精悍な顔立ちに戸惑いの色をにじませて戸口に立っていたが、目が合うとすぐゆっくりとした足取りで近づいてきた。
「これくらいの広さの部屋ならば、探せばすぐに見つかると思います」
遼子は、仕事用の笑みを浮かべる。すると、見上げた視線の先で別所はほっとしたような顔になった。
「そうですか、よかった」
こわばっていた表情が緩んだ。ほのかに恋心を抱いている人が、自分が大好きな少年のような表情をしたのだ、ときめかないわけがない。しかし遼子は、仕事中だと自分に言い聞かせる。
「会社まで歩いていける距離なのでずっと住んでいるんですが、この部屋ひとりで住むには広すぎるんですよね……」
別所が苦笑する。
「まあ……、お一人で住むだけなら広い、でしょうね……」
3LDKは、シングルが住むには広すぎるだろう。離婚したあとから住んでいる2LDKの部屋も必要最低限の家具しかないから広く感じるし、別所の気持ちもわかる。納得しながら苦笑いで応えたものの不意に疑念が生じた。彼はなぜ、単身者なのにファミリー向けの部屋に住んでいるのだろう、と。
「そうなんですよ。物件探しが好きな岡田に頼んだら、僕の希望にマッチしているのはここしかないと言われてしまって」
岡田は別所の秘書で社内一のモテ男だ。別所には劣るが仕立てのいいスーツ姿がさまになる容姿に高学歴とくれば、そうなって当然といえば当然なのだが、それをいいことに火遊びばかり繰り返しているのだと仕事のサポートをしてくれているスタッフからは聞いている。そんな不純な男であっても仕事はできるらしく別所は彼を頼りにしているようだった。岡田のことをげんなりとした顔で話すスタッフの顔を頭の中から追い払い、遼子は問いかける。
「どんな希望を出されたんです?」
「会社まで歩いて行けること。それと落ち着いた場所にあることです。あ、あとベランダに椅子を置けることです」
なるほど。彼の希望をすべて叶えられる物件がここしかなかったのなら合点がいく。が、また新たな謎がわいた。
「どうしてベランダに椅子を?」
なにも考えず聞いたら、どういうわけか別所から気恥ずかしそうな顔を向けられる。
「……ベランダでお酒を飲むからです」
「お酒ですか?」
「ええ。気持ちを落ち着かせたいときとか、あと、眠れない夜、とか……」
都合悪そうに話す彼の姿は、まさに職員室に呼び出された生徒のようだった。どうしてそのようにしているのか気になったが、これ以上踏み込んではいけない。自分と彼の関係はビジネスパートナーでしかないのだからと言い聞かせ、遼子は相づちを打つ。
「そうなんですか」
すると視線の先で居心地が悪そうだった彼が、いきなり真面目な顔をした。
「はい。実は……、昨夜も眠れなくて飲んでました。だって、あなたが――」
別所が意を決したような顔で、昨日ベランダで酒を飲んだ理由らしきものを言いかけたそのときだった。呼び出しのチャイムが鳴ったのは。視線の先にいる彼の表情がみるみるうちに緩み、やがて照れくさそうな笑みに変わった。
「そうだ。お寿司を頼んでいたんだった。遼子先生、お寿司好きでしょう?」
「え? ええ、好きですが……。でも、ただお部屋を見に来ただけなのに、そこまでしていただくわけには……」
今日別所の部屋に来たのは仕事だ。物件の売却について相談されたものの、不動産の契約ではなく相場についてはまったくわからないから応えようがない。言葉を慎重に選んで返事をしたところ、
『僕もさっぱりわからないので、どんな物件なのか見に来ていただけませんか?』
よくわからない理由を破壊力満点の笑顔で述べられたうえに、スタッフから『これは仕事ですよ。仕事』と強く言われてしまえば断りにくい。とはいえ仕事であっても好意を抱いている相手の家に行くのだから本音を言えば嬉しくないわけがないのだが、遼子は浮き足だった気持ちを引き締めるために、ふだん会社に着ていく格好――濃紺のパンツスーツ姿――で別所の部屋を訪問したのだった。
「部屋をひととおり見終わったのですからお帰りいただいてもかまわないです。でも、二人分のお寿司を僕一人で食べるのは大変ですしさみしいです」
部屋を出てすぐ別所からさみしそうな顔を向けられた。
「……じゃあ、ご相伴させていただきます」
遼子は笑みを作る。
歳を重ねると、揺れる心の隠し方がうまくなるものらしい。恋する相手と一緒に過ごすのはうれしいが、二人きりでいる時間が増えると喜びは違うものに変わっていく。そうなってしまう前にここを離れよう。そう心に決めて、遼子は別所とともにリビングルームへ向かったのだった。
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