第一章 あなたが好きです

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 パーティは、篠田(しのだ)の会社にほど近いホテルで行われた。遼子(りょうこ)はそこへ別所(べっしょ)岡田(おかだ)深雪(みゆき)とともに向かったのだが、車から降りてから会場へ向かうまでのあいだにすっかり疲れ切ってしまった。それというのも、着慣れないドレスに履き慣れない靴のせいだ。  ふだんの遼子は、仕事はもちろん私生活でもパンツとローヒールのパンプスを好んでいる。それなのに今は足首まである長い裾のドレスにハイヒールのせいで足下がおぼつかず、別所の支えもといエスコートのおかげでどうにか歩いていたのだった。 「別所、それに麻生(あそう)先生も!」  受付を済ませ会場へ足を踏み入れてすぐ、張りのある太い声で呼ばれた。別所の腕にしっかり腕を絡ませながら声がしたほうを見ると、満面の笑みを浮かべている篠田が人波をかき分けて近づいてきた。がしかし、一緒にいるはずの彼の妻の姿が見当たらない。もしかしたら篠田とは別にゲストへの挨拶回りをしているのだろうか? いや、篠田の妻はどんなときでも夫に寄り添うように側にいるから違う。じゃあ、彼の妻はどこに? 不審を抱きながら控えめにあたりを見渡していたら篠田がやってきた。 「驚いたな。まさか本当に麻生先生を連れてくるとは」  堂々たる体躯の篠田が驚いた顔をした。びしっとした格好が様になっている篠田の大きな背中に別所が手を伸ばす。 「今夜はお招きいただきありがとう。遼子先生と一緒に楽しませてもらうよ」  別所と篠田は、大学時代からの付き合いだと聞いたことがある。まるで兄弟のような付き合いをしていたらしく、学部こそ違っていたがしょっちゅう一緒にいたのだと篠田からかつて聞かされた。それにしても篠田の妻はどうしたのだろう。笑みを作って篠田に挨拶をしている間、遼子は気が気でなかった。  篠田と挨拶してまもなくパーティーが始まったが、篠田の妻を見かけることはなかった。いよいよ不審を抱いた遼子は声を潜めて別所に問いかける。 「あの……、篠田社長の奥様の姿が見えないんですが……」  すると別所も思うところがあったのか、表情をわずかに曇らせ「うん」と応じた。 「実は僕も気になっていました。もしかしたら体調を崩されているのかも……」  篠田の妻が主催するお茶会があったのは二週間ほど前だ。そのときは健康そのものだったけれど、その後具合を悪くしているかもしれない。 「明日にでも連絡を取ってみます。もしも入院されているのならお見舞いにいかないと」  本音を言えば篠田に尋ねたいが今日は無理だ。パーティーが始まったら彼は挨拶回りで忙しくなるだろうから。 「そうしてくださると嬉しいです」  別所から優しくほほ笑まれたら、落ち着かなかった心が一瞬で凪いだ。  別所の笑顔を見ると幸せな気分になるし安心する。それが恋だと自覚してはいるけれど、だからといって別所に恋心を告げるつもりはない。夫だった男にも、別所に抱いたものと同じ気持ちになったけれど、恋人となり結婚して夫婦になったあとそれらは少しずつ目減りしていった。  異なる環境で育った相手と夫婦になるということは簡単なことではない。好きという感情だけで乗り越えられないものもあるし、二人の考えがぶつかる瞬間が必ずある。それを克服できればよかったのにできなかった。  あのとき、どうすれば良かったのだろう。過去と現在の狭間で立ち止まると必ず浮かぶ自問が頭の中で駆け回り、苦い記憶とともに別れた夫から掛けられたつらい言葉が脳裏に蘇った。それに加えて夫婦関係を修復させるための打開策を見つけられなかった罪悪感もぶり返し、気持ちがどんどん沈んでいく。だが、 「遼子先生」  別所の温かい声が聞こえたとたん無音だった世界に音が戻ってきた。心を覆い尽くしていた暗雲がたちまちのうちに消えていく。 「僕たちも挨拶回りしましょうか」  別所から優しい笑顔を向けられ、暗闇に陥りそうな意識が引き戻された。 「それとせっかくパーティーに来ているのだし、合間合間に食事をつまむことも忘れないようにしないとね」 「ですよね」  心にのしかかっていたものがなくなったからか笑みが自然と漏れた。 「じゃあ……。岡田、僕は遼子先生と挨拶回りするから深雪くんのエスコートをお願いします。あと、篠田の挨拶も終わったし帰りたくなったらいつでも帰っていいですよ」  別所はにこりと応じたあと、すぐ側にいる岡田に告げた。 「わかりました」 「じゃあ、パーティーを楽しんで」  腰に添えられていた手が体をわずかに押した。遼子は自分を支える大きな手に意識を向けないようにしながら別所とともに歩き出したのだった。
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